捕鯨基地跡 (港町31)

―― ポーが鳴って見物人が集まった解体場 ――

 私立網走図書館跡から東へ向かって港に出ると、クジラの解体場跡があります。オホーツク海で捕獲されたクジラは、ここに揚げられて解体されました。昭和6年(1931)につくられた解体場は、いつも人々でにぎわっていました。

 捕鯨船がクジラをとって港にもどってくると、合図の汽笛を三度鳴らしたそうです。街の人々はクジラのポーが鳴ったと言って、いっせいに解体場にかけつけて見物しました。
 ナガス、ザトウなどの大型クジラが腹をさかれると、内蔵が湯気を立ててどっとあふれ出すのです。六尺柄のナギナタを使った男たちが肉に切れ目を入れ、皮をはいでいきます。見る間に解体されていくようすは、見あきないほどの壮観でした。

 戦後の一時期、網走港だけで七隻の捕鯨船がいて、100頭をこえるクジラが捕られ、食糧難の時代の貴重なタンパク源として、全国に送られていました。
 大型クジラの解体場は、昭和37年に消えていきました。付近のなぎさをクジラ浜とよんでいましたが、その名も消えて今は岸壁になっています。

 ところで、この解体場ができる前に、捕鯨発祥の地がニッ岩の裏のタンネシラリにありました。大正4年(1915)に東洋捕鯨会社が、オホーツク沿岸の捕鯨基地として解体場を開き、大正8年まで操業していました。今は国際捕鯨委員会の決定で、ツチ、ゴンドウなどの小型クジラしか捕ることができなくなり、網走の捕鯨はきびしい状況になっています。

 さて、この港の解体場跡の目の前に、帽子岩があります。アイヌ民族はチパシリ岩と呼び、幣場(祭場)のある場所で、網走の語源になったといわれます。

後ろをふり返ると、台町の高台が見えます。市役所の前から裁判所坂と呼ばれている道を上って、知人岬跡へ行ってみましょう。  

 

 

 

昭和30年代の三好捕鯨部の
クジラ解体作業

 

 

東洋捕鯨の捕鯨船レックス号
(昭和8年頃)



歴史散歩 捕鯨基地跡