呼人りんご栽培地跡 (呼人四一一)

―― りんごの花咲く町をもう一度 ――

 国定公園の標高207メートルの天都山を眺め、網走湖の湖口近くのチパシリ岩の跡を見ながら、呼人(よびと)に向かいます。探検家の松浦武四郎が、安政5年(1858)にスケッチしているチパシリ岩は、網走の語源という説もあります。

 さあ、いよいよ網走歴史散歩のおしまいは呼人地域です。
 呼人はアイヌ語のヨッピ・トウ(別れた湖)からつけられた地名です。網走市街から約10キロ、JR石北本線網走駅の隣が呼人駅です。

 かつて、ここに「呼人りんご」という名で有名な果樹園が、たくさんありました。呼人市街の南側の丘陵一帯に、りんご、なし、さくらんぼなどの果樹が栽培され、なかでも、りんごは有名でした。

 りんごは坂野竹次郎さんが、最初に植えたと伝えられています。坂野さんは大正4年(1915)に入植してきて、次の年に苗木を植えつけました。そのころ、丹治さん、北向さん、五十嵐さん、沢本さんも植えつけたといわれます。

 しかし、それより前の明治時代にも、りんごの樹は田中牧場などで植えられていたので、りんご園としては坂野さんらが初めてということでしょう。

やがて、呼人はりんごの生産地として、知られるようになりました。盛んだった昭和17、8年(1942〜1943)ころには、りんごの栽培面積は100ヘクタールをこえ、栽培農家は30戸を教えました。海外にまで知られ、東京に出荷するほどでした。紅玉、旭、豊玉、生娘、国光、デリシャス、インドなど、なつかしい名前のりんごの種類が作られていました。その呼人りんごは、病虫害が出たり、労働力が不足するなどのほか、品種改良された本州物におされて、栽培が減っていきました。りんご園は次第に少なくなり、昭和45年頃にはついに消えていったのです。

今、呼人地域の人々は、りんごの花が咲き、りんごの香りただよう呼人をもう一度と、「呼人りんご」復活に取り組みはじめています。

 

 

 

花が咲きほこった時期の
りんご園

 

 

 



歴史散歩 呼人りんご栽培地跡