ポーロの坂 (台町三丁目九)

―― 荷物を運び上げた急な坂道 ――

 ここは、網走南ヶ丘高校の東がわで、市営住宅のある付近です。台町から333本通りにつながる台町中央通線の近くです。そこにポーロの坂の下り口があります。急坂で曲がりくねった細道のため、残念ながら現在は通行禁止になっています。

 下のポンモイ海岸から見ると、JR釧網(せんもう)線のトンネルの入り口近くから、線路を横断して上ることになりますが、もちろん禁止です。すぐ近くの崖の岩は、網走市の指定文化財になっている「ポンモイ柱状節理」です。また、ここは石切場跡でもあり、戦時中に採石のため強制労働が行なわれ、労務者の犠牲者が出たところです。

 アイヌ語のポールポク(岩窟の下)にちなんで、ポーロの坂と呼ばれたこの道は、シレト岬の難所をさげて、網走と斜里方面をむすぶ唯一の道路でした。また、しけで船を網走の前浜に寄せることができない時は、ポンモイに船を着け、陸揚げした荷物をかついで坂の上に運び、そこから町まで馬で運びました。

野付牛(のっけし)(北見)に入植する屯田兵をのせた船が、時化をさけてポンモイ湾に入った時も、ここに第一歩を記し、坂を上って網走の町に入りました。近くの海岸に、明治30年(1897)の屯田兵上陸の地という記念碑が建てられています。

 ところが、ポールポクの西寄りに、ポンノテッという小さな岬があったのです。その岩場をさけて、南ヶ丘高校の下にもう一本あった坂道を利用して、荷物を運び上げたともいわれています。古い地図にも坂道が記されています。いずれにしても、高台に上がるためには急な崖道を上るという、難儀の時代でした。

 ポールポクの沢の岩穴には、小人が住んでいたという伝説がありました。アイヌ伝説の中には、ふきの下の神様と呼ばれたコロポックルという人たちがいたという話がありますが、ポールポクに住んでいたのも、コロポックルだったのでしょうか。高校生時代にエスケープして、ポーロの坂を下って海岸までやって来た学生は、ふきの下の神様と出会ったのでしょうか。

 

 

 

下から見たポーロの坂

 

 

 



歴史散歩 ポーロの坂跡