荷揚坂跡 (嘉多山)
―― オホーツクの内陸開拓のために ――
市内から網走湖畔をまわり、二見ヶ岡までくると「国道創設殉難慰霊の碑」があります。嘉多山地区の丸山公園の交差点まできました。道道嘉多山美幌線の坂道を下りた右手に荷揚坂跡があります。
明治24年(1891)釧路集治監網走外役所の受刑者1200人を使って、網走と石北国境に通じる中央道路を拓く工事がはじまりました。
この工事は難儀をきわめ、二百数十人の犠牲者を出したことで「囚人道路」として知られています。この時、網走から工事のための食糧や資材を船に積んで、網走川をさかのぼり、網走湖を渡って船着き場に下ろしました。
集治監では、ここに仮監とよぶ宿泊所をつくり、受刑者が目の前の山をけずって沢伝いに丘の上まで道をつくり、馬で荷物を運びあげました。荷揚坂の名はその時についたのです。今も稲荷神社の鳥居の近くに、急坂の曲がりくねった道の跡がわずかに残っています。荷揚坂は道路建設だけの役目でなく、その後野付牛(北見)や端野に入植する屯田兵たちが、同じコースで船から上陸し、坂を上って開拓地へ進みました。そのころは、ぬかるみの道だったと伝えられています。
道を拓いた受刑者たち、奥地へ進んだ開拓者たち、それぞれどんな思いで坂道を歩いたのでしょうか。
この坂を上ると、旅人が利用した中央道路第一号の駅逓跡があります。そこは道道網走端野線の道端です。
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