釧路街道起点跡 (南4東3)
―― 釧路まで157キロの出発点 ――
網走市役所のそばから駒場方面に向かって行く道路を、今でも釧路街道と呼ぶ人がいます。333本通りともいわれています。
網走から駒場、鱒浦、藻琴の台地を通り 小清水、川湯をへて釧路に向かう道があって、釧網線の鉄道ができる大正13年(1924)ころまで、さかんに利用されました。
この道は、明治20年(1887)、釧路集治監の受刑者を使って、釧路がわから着工されました。川湯や野上峠付近は難工事で、百数十人の犠牲者を出し、中央道路とならんで、もう一つの囚人道路と呼ばれています。
網走の中心街につながる釧路街道は、このようにして明治23年に開かれましたが、その以前にも小さな道はあったと考えられます。
かつては、近隣の農村から雑穀を運んでくる人たちでにぎわい、大正5年ころの青えんどう(豆)景気の年には、荷馬車が長い列を作ったと伝えられています。釧路街道坂の下と呼ばれた道すじの両側には、雑穀の仲買商が軒をならべ、かじ屋、てい鉄屋、馬具店、そば屋、旅館などが建ちならんでいました。てい鉄屋というのは、労働に使う馬に鉄のひずめをはかせるかじやさんです。
現在の五社屋の四つ角付近が、道路の起点でした。古い写真を見ると、「元標距釧路三十九里六町」と記された道標が建っていたのが分かります。
正式には釧路道路というこの道を網走の人々は親しみをこめて、釧路街道と呼んでいたのでしょう。
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